ヤマトタケルの父、景行天皇が崩御し、
ヤマトタケルの異母兄弟が
成務天皇(せいむ天皇)として即位しました。
系図
成務天皇は、日本にそれまでぼんやりとあった、
色んなクニの境界線(県境のような)を作り、区画整理をしました。
そして、それぞれのクニの有力者を、(今でいう県知事のような)代表者に任命したり、
それらをとりまとめる群のような上位組織を作り、
その「群」を執りまとめるのが天皇...というように
中央集権化の基盤を作り上げて行きました。
中央集権国家のひな型とでもいうか。
神武天皇が、まず即位して、
10代天皇崇神天皇が東北を平定して、
そして、とうとう13代天皇の時に中央主権国家のひな型が出来た...
というような流れです。
成務天皇はお妃が1人、子供も1人です。
お妃が80人もいた、父:景行天皇に対する反発でしょうか…。
11代:垂仁天皇
1人のお妃を深く愛する
↓
12代:景行天皇
80人のお妃を持ち、子供も多く残す
↓
13代:成務天皇
お妃1人、子供1人
中巻、下巻、と
割と天皇が「父とは逆の生き方をする」というような感じなので、
中巻、下巻は、物語を点と点で覚えるのは難しいかもしれませんが、
線と線で結ぶと覚えやすいかもしれません。
「赤」があればその反対の「青」
「青」の反対の「水色」
「水色」の反対の「桃色」...
とにかく反対の出来事に回って物語が進んでいく印象があります。
成務天皇の子供は、恐らく成務天皇が崩御される前に亡くなられており、
跡継ぎがいない、ということで、
次の天皇はヤマトタケルの子、
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が14代天皇に即位しました。
父、ヤマトタケルは英雄として称えられており
偉大過ぎる父の存在に、重責が掛かる仲哀天皇でしたが、
神功皇后(じんこうこうごう) というとても勇ましい皇后と、
建内宿禰という大変優秀な大臣がいました。
この建内宿禰という人物は、今後もたくさん名前が出て来る人物で、
歴代の天皇に仕え、300歳以上生きたと言われる高齢の大臣です。
その頃、かつてヤマトタケルが一番最初に征伐しに行った土地、
熊曾で不穏な空気があり、
再度 熊曾を討とう、ということで
仲哀天皇たちは九州の北部、
筑紫に移動しました。
筑紫に着いてから、
熊曾との戦いを占おう、ということで
祭場を作り、神託を受ける儀式をすることになりました。
...天皇が琴を弾き、神を呼び寄せ
神功皇后を巫女となり、神の声を聴くというものです。
皇后に神が憑依し、言いました。
『西を攻めなさい。
金銀財宝が眠る豊かな土地です』
これから攻めようとしているのは、南の熊曾です。
西には海が広がるばかりです。
「西には海しかありません。
南の、熊曾を攻めるというのに、一体何を…」と
仲哀天皇は戸惑います。
神の声は
『何故従わないのか。
貴方は黄泉の国にお行きなさい』と言い放ち、
うろたえる仲哀天皇は、琴を弾くのを止めてしまいます。
建内宿禰は慌てて、
「神様の御前です、礼儀を欠いてはなりません」と
琴を弾くように頼みますが、
何とそこで、...仲哀天皇は崩御してしまうのです。
皇后の憑依が解け、
仲哀天皇が倒れているので皇后は大変驚きました。
天皇が、文字通り 琴切れているのですから...
その後、この異常事態への対策として
国中のお祓いのための
供物を集め、
全国にあるありとあらゆる罪を調べ上げ、
犯罪者たちを追い出し、
国中を祓い清めました(
大祓)。
再度神託により『西を攻めなさい』との神の言葉により
悲しむ間もなく、神功皇后たちは西を攻めることになりました。
西というのは、つまりの
新羅のことです。
日本以外を平定するということです。
特に新羅から攻められている訳でもなく、いきなり征伐しに行くというのは何となく横暴なイメージがあります。
その、ともすると負になりそうなイメージを少しでも和らげるために
「天皇が征伐するのではなく、皇后が」という形を取った可能性もあるかもしれません。
西に出発する前に、神様から
「西を平定した暁には、皇后のお腹の中にいる男子に国を治めさせる」と
言われます。
そんな大事な体だと言うのに、
神功皇后は男装をし、鎧を付けて西に出発します。
女性としての弱さを出さず、ここで男装して出発する描写を取ることで
好感を上げようとする意図も感じます。
船で西に向かっている最中に不思議なことが起きます。
たくさんの魚たちが船に寄って来て、船を背負って高速で動かすという謎の事態が起こります。
不思議な事の多かった昔の世界ですので、
そういうことが起こったということかもしれません。
そのことで大波が起き、
船は新羅の中心部まで迫りました。
新羅王はこのことを大変畏れ、特に抵抗することもなく
神功皇后に従いました。
かくして、三韓征伐が果たされます。
・
新羅
・
百済
・
任那
に日本軍の拠点を置かれ、
三韓は平定され、
神功皇后は日本に帰ったのでした。
すでに臨月は迎えていたのですが、
大きな石をお腹に縛り付け、この用事が終わったらゆっくり出産しようとコントロールしていたのでした。
こんなこと、有り得ないことなのですが、
「あの人ならやりかねない」「あの人なら有り得る」と思わせるような、
雄々しい女性だったのかもしれません。
昔は不思議なことが多かったので、
身体能力が今と違う、ということなのでしょう。
建内宿禰も300歳以上生きたと言われているので、
国津神の血がまだ濃かった、ということなのかもしれません。
筑紫についてやっと出産した男の子が、
後の
応神天皇となります。
ここまでの系図の説明
子供(応神天皇)が生まれ、
倭に帰還しよう、という時にある情報が届けられます。
仲哀天皇の子供ふたりが、
密かに潜んで生まれた御子の命を狙っているという情報です。
神功皇后にとっては、仲哀天皇の息子なので、
義理の息子たち、ということになります。
生まれたばかりの御子を狙ってのことでしょう。
神功皇后はまず、御子が早世したという設定にし、
わざと喪に服す船で帰り、
喪船の中に兵士がいる訳ないだろうと油断している敵勢に、
矢の雨を降らせました。
その後、今度は神功皇后が亡くなったという設定を作り
「皇后さまが崩御なされたから、もう争う気はない」と
兵士全員が、敵兵の見える所に並び、一斉に弓の弦を切るという行動をし、
敵勢が油断して
「分かった、ならば我らも弓の弦を切ろう」と
敵勢みなが弓の弦を一斉に切ったのを見計らい、
あらかじめ(皇后側の)兵士たちの髪の中に仕込んでおいた予備の弓の弦を取り出し、
すぐに弓を張って、敵に矢の雨を降らせました。
そして敵は倒された、ということです。
やつけた側が天皇で、男性の場合は「卑怯なやり方で敵を...」と言われそうな戦い方ですが、
戦っている相手は皇后(女性)なので、
卑怯に戦っているというよりは、勇ましいとか勇敢で格好良い、というイメージが先行します。
生まれた御子は、 形だけとは言え喪船に乗せられ、一度亡くなっているということにされたため、
数年間、穢れを清めるため禊の旅をします。