古事記の、日本列島の呼び名:
秘密の話と言えるかもしれないが、
実は横綱たちは、横綱になった後に不思議と授かってしまう超能力のような力を
「これ、どうせ言ったって誰も信じてくれない」と周りに言わないだけで
実感があるはずなのだ。
良く分からない、
「何となく視える」だの「何となく感じる」だのとは違う、
明らかに人のオーラが視認出来るだとか本当に何か超能力のような『力』が。
ただし、不思議と日本人しか感じることが出来ない。
帰化した場合は別だが、日本人にしかそれは感じることが出来ない。
初代横綱である、明石志賀之介はそれこそ言い伝えの
「こんなに強かった」というようなエピソードや、
今に伝わっている肖像画のような逞しい力士のような姿では全然ない。
細くて背も低く、容貌も中性的で少年のようであった。
横綱、という存在にしか出来ない『祓う』ということをずっとしていた。
姿は力士ではなく、神主の格好に近い......
相撲というものは、
自身の強さに絶望したミカヅチの涙に報いるための、
ミナカタの静かなる挑戦とも言えるかもしれない―...
例え未来永劫勝てなくても、
どんなに頑張っても、どんなに肉体を酷使しても何を食べても!
どんなに体を大きくしても!筋肉だらけにしても。
それでも、報いたい、絶対に逃げずに立ち向かう
そういう祈りが土俵という聖地に眠っているのかもしれない。
相撲部屋の稽古場に、稽古が終わると土俵の中心に何かこう
形代のようなものが刺さっているのであるが...
ミナカタを殺しかけることをしてしまい、
自身の力の恐ろしさにすっかり委縮してしまったミカヅチが
草原に座り、
子供たちが相撲をして楽しんでいる姿を見て土俵を眺め―...
―あの土俵の中に俺を封印して欲しい、
決して俺という危険な存在を外に出してはいけない―
という気持ちを、空から土俵の中心に雨というか露がパラパラパラッと光が落ちるように
そっと宿した。
祝福と、そして封印を―...
例えば、ある神様の神社が10社あれば、
その時によって神様がここの神社にいる、この日はこの神社にいる、この日は...
というような概念ではなく、
その神様の神社が10社あれば、同時に10社とも、その神様が宿っているのである。
それと同じ概念で、全世界の土俵には中心にミカヅチが宿る。
大相撲で、土俵の中心に穴を開け、奉納品を埋めて
神様に供物を捧げる儀式をするのはそのためである。
あの細い形代はミカヅチの依り代なのである...
八百長というのは何故あるのだろう?
東と西と、地域があるが、
東を、今度は西を、と
こちらをわざと勝たせて豊作にし、今度はこちらを勝たせて豊漁(ほうりょう)にし...
そうやって祈っているのである。
いわゆる、スポーツではなく神事なのだから。
奉納、祈願、祈りなのだ...
そういうところから始まっている。
八百長も含めて文化なのである。
清らかな勝負と共に
祈ることしか出来ない弱い人間の思いも含まれているのかも、しれない
ミカヅチはかつて、穢れの多い黄泉の国の
評価して欲しいタカミムスビから諦められ、その評価を彼らに奪われた。
穢れの多い黄泉の国を『浄める』という形で挑戦しつつ
穢れの強さを認めるミカヅチの気持ちを
土俵の上の力士たちが読み取ったのかも、しれない。
浄め、穢れを受け入れ...
清濁併せ呑み、天の祓う力と、地下の力を持ち。
真の強さに挑みつつ祓い浄め、豊穣を願う―...
真の強さを...豊かさを。
穢れを拒む訳でなく、常に祓い浄め。
真の豊かさを。
豊かな
ミカヅチが憧れた、水穂の国を創る存在たち―...